「面白い車に乗っているから友達なのではありません、友達が面白い車に乗っているのです」
自動車という産業は非常に巨大であり、また、人類も自動車のことが大好きである。たとえば5ナンバーの国産ミニバンに限ってみても、セレナ・ヴォクシー・ノア・ステップワゴン・フリード・エスクァイアと6車種もある。これは、共産主義国家であればありえないことである。顧客の中で、それほど大きな選好の差があるわけでもない。ただたくさん車種を作っても割に合うほど人類が自動車が大好きだという証左である。
T型フォードが、大衆向け量産自動車というカテゴリを成立させたことにより、ほとんど全員が自動車を購入できるようになっても、人類の自動車に対する欲望は尽きなかった。1950年代のアメリカの例では、よりデカく、よりハイパワーにである。オイルショックなど紆余曲折を経て、現代では、外装テクスチャデザイン、燃費やブランドバッヂ、内装、インフォテイメントシステム、自動運転システムなど、選好の基底ベクトルが多数存在している。
したがって、人類が微妙な選好ベクトルの違いに見合ったコストが払うかぎり、車種が細分化されていく。そして、人類は相当のコストを自動車に対して払うので、現状のように巨大な労力が投入され際限なく車種が増えてしまっている。
自動車は、移動手段、占有空間としてだけでなく、欲望の象徴、自己表現の手段、成功の証など、様々な目的によって購入される。自動車にはブランドバッヂやSUV/ワゴン/スポーツカーなどの様々な記号も付与されている。さて、我々クルマ好きは、真にクルマの面白さによって車種を選んでいると自負しがちだが、本当にそうだろうか。
少なくとも、比重はともかくとして、先の目的群にあるような俗っぽい目的が少なからずあるはずであると私は考えている。例えば、"クルマ好き"のうち、ピュアに走行性能のみを突き詰めた上にノンパワステノンブレーキサーボの軽トラを所有する人は殆どいない。なぜなら、軽トラには、先に上げたような資本主義的ドラが全くノっていないからだ。
結局、どれほどピュアなクルマ好きであると自認していようとも、この大量消費社会のくだらないマーケティングから完全に独立することはほとんど不可能なのである。したがって、他人のクルマを嘲笑おうとも、所詮資本主義という巨大な御釈迦様の手のひらの上で踊っているだけなのだ。せいぜいNot for meまでに留めておかないと、孫悟空レベルのイキったアホになってしまう。
この話は、聖書であるところの湾岸ミッドナイトにも有名なセリフがある。


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