ただ秋の夜の夢のごとし (小説/Fiction)

 木曜日、午後7時30分。夜の辰巳パーキング。

 シルバーのS660は入口近くのピットレーンに小さく佇んでいる。

 本来はここは短時間利用者用のスペースだが、この時間には営業車のプロボックスなど1台も見えない。代わりにGT-Rやポルシェやランボールギーニが小さなPAにひしめき合っている。飛び石でガリガリの歴戦の個体から、ワックスでピカピカの"語り屋"まで皆300馬力はありそうな車に乗っている。そうした車列の中で間違いなく浮いている軽四が私の車だ。

 その軽自動車にしては大きく傾いたフロントガラス越しに、一台のクルマが水平対向6気筒の音を轟かせて進入してくるのが見える。

 真っ白な991.2GT3。圧倒的に場違いなこちらが、スペースを譲ることにする。

 フットブレーキの感触を確かめつつ踏み込み、左手で助手席側に半ばはみ出したハンドブレーキを解除する。

 シフトレバーを一度左へ倒し、1速のシンクロを押し当てる感触を得てから、前に叩き込む。フロアの中央のコンソールの下を通っているタイトなワイヤーを引っ張り、ギアボックス内のフォークを倒す。1速ギアがメインシャフトと一体になる。

 クラッチをゆっくり戻す。完全に繋がったことを確かめてから、スロットルをほんの少しだけ開ける。


 辰巳PAの出口へまっすぐに向かう。そのレーンは9号深川線への合流車線になっている。

 6000rpmまで回して2速へ。そしてスロットル全開。やや遅れてブーストが立ち上がる。

 そして3速へ。3速を回しきったところで、軽くブレーキを当てる。前輪に荷重を乗せるためだ。そうでなければ合流の左コーナーを安定して曲がることはできない。3速全開のままではS660は完全なフロント荷重不足で、フロントタイヤの過度なスリップアングルと電子制御に頼った恐怖のコーナリングとなる。

 スッとノーズが沈んだのをピッチングから確認して、ブレーキを徐々に緩めつつステアリングを左に切る。ロールとヨーレートの発生を感知し、左のミラーを確認しつつスロットルをパーシャルへ。ヨーレートが出すぎたので舵角は少し戻す。そうやって、カニ走りするように左車線に移る。それはそのまま9号の本線へ合流していく合流車線が1車線に収束することを意味する。

 真っ赤に光る速度計の針は90km/hを指している。大きな右のミラーをちらりと見て、こちらが入っていく左側車線を進んでくるクルマがいないことを確かめる。ありがたいことに、オールクリアだ。

 スロットル再び全開。9号線に入る。


 その時だった。左のミラーにLEDマトリクスヘッドライトが写った。辰巳からついてきたAudi TT-RSだ。

 床まで踏んでいたスロットルを半分ほど戻す。加速を鈍らすこちらと入れ替わりに、そいつはスロットルを踏んだ。後ろで轟音がした。こっちだって背中の後ろで直列3気筒が喚き立てているのに、そのAudi謹製5気筒シングルターボエンジンの轟音ははっきり耳に届く。

 とはいえ、時間帯もあり、本気でバトルする気はなさそうだ。

 バックミラーを確認する。スズカグレーのTT-RSだ。本来オーダーできない色なので特注だろう。ハイブーストの5気筒シングルターボエンジンを鼻先に搭載する四輪駆動のAudiクーペ。1980年代前半にWRCで大活躍したAudi Ur-Quattroを大きく意識した車だろう。もはや、現代のAudi Ur-Quattroと言っても過言ではない車だ。

 それに対してこちらはどうだ。エンジンこそ660cc、ナンバーこそ黄色だが、ミッドシップ横置きにエンジンを搭載、ロワアームとストロークを大きく取ったリアサスペンションを持つこの車はまるで現代のランチア・ストラトスだ。

 ーーーさながら世代を超えてのWRC王者同士の戦いだ。



 Audi Quattroを前に出す。背の低い軽自動車では周りの車のミラーに写らず危ないからだ。

 一般車の殆どは、あまりに周りを見ていない。車線変更時の危機意識に欠ける。


 そういうこちらの心配をよそに、Audi Quattroはストラトスの前へ出た。きれいに走っている。クルマもドライバーも信じてよさそうだ。そういう空気がある。

 合流からしばらく続く長いストレートをAudi Quattroは加速していく。

 ストレートエンドでは、200overの世界へーーーという時間帯ではなく、混雑しているので制限速度でターンイン。それが見通しの悪いコーナーの絶対安全ラインだ。

 現役トップランナーたちが270km/hで駆け抜ける高速S字を、ストラトスとAudi Quattroは60km/hというのんびりした速度で入る。それがまあ午後7時の限界だ。

 登りを見渡せるビルには、ルーレット族監視用のカメラが公安の目を光らせているが、アクセルは緩めない。

 かつてオービスのあったゲートをくぐり、左、右、左のS字。最後の左の下りながらのイン側は荒れているのでアウト側車線になるように車線は選択する。軽自動車の冴えないアシと柔い車体には辛いのだ。そして奥がタイトになっているのでブレーキを残してしっかりと速度を落として向きを変え、全開ーーー。

 S字進入はピーkm/hほど。4速をキープして駆け抜ける。シフトチェンジによる挙動の乱れを立て直すスペースはないのだ。左車線を選択して一般車に詰まったAudi Quattroの前に出る。そしてストレート。

 箱崎PAの入り口を過ぎて、左に車線変更する。遅れてAudi Quattroも左へ移った。6号でなく、C1に向かうという意思表示だ。いわゆる新環状とよばれるループをなぞるのだ。


 ストラトスとAudi Quattroは、箱崎ジャンクションに入る。タイトな左90°のターンはややアウト側からクリップを奥へ持ってきて綺麗なラインをトレースすることで合流時の失速を防ぐ。

 交通量も多く、このまま左にいて環状線内回りだ。

 かつて川を、別の場所に暗渠化して、干上がった川底を高速道路にしたエリア。一瞬の直線でAudi Quattroが前に出る。驚くほど空いているのにAudi Quattroは押さえ気味のスピードで流す。ここがかつての"橋桁"多く危険なことをよく知っているのだ。それにオービスもある。

 汐留S字の手前の上りでAudi Quattroが先を譲る。ココから先は警察もオービスも無いはずだ。なるほど、幅の広いところで私がどんなラインをなぞるのか後ろから観察してパワーで襲いかかろうというのだ。


 その汐留S字直前の合流に、NVバネットが現れる。おもむろに右に車線変更してくる。こちらはフルブーストで加速中だ。3車線あるので右に避けつつ、そのままS字手前まで全開でーーー

 そしてAudi Quattroはアクセルを抜いた。直前まで我慢した後ブレーキングでフロントに荷重したストラトスは、そこからキレイにヨーレートを発生させ、アクセルオンで軽くリアを滑らせながら立ち上がった。振りっ返して、S字の二個目のコーナーに入るーーーーバックミラーからQuattroが消えた。

 ここからはレインボーブリッジ方面だ。相手もそれがわかっているだろう。その時、後ろから直列五気筒の吠えるような音とともに、フロントライトにミラーを照らされて視界が真っ白になる。Quattroが追いついてきたのだ。200mは離したであろう、その距離を一瞬で。


 平日夜7時のレインボーブリッジは、やはり混んでいる。レインボーブリッジの傾斜はきつく、上り部分ではパワーが大きく物を言うが、これではどうしようもできない。それでも一瞬のクリアで、Audi Quattroが前に出る。圧倒的な馬力と腕で、前に出たQuattroだが、やはり混雑はどうしようもない。2台つらなってゆっくりと下りの左コーナー、右コーナー、もう一つ右コーナーへ。多くの首都高族が散っていった区間を、安全マージンを大きく取ってゆっくりと、きれいなラインでクリアしていく。ここからは左コーナー、湾岸線千葉方面だ。そのとき、2車線あるジャンクションが奇跡的に両方ともクリアになった。全員が横浜方面に流れる。奇跡だ。


 どうする。前に出るか。

 しかし、この先、湾岸線の合流では、1車線になる。ここは交通量が多く、前に出られるのは一台だけだ。

 右のコンクリートには数々の車が散っていった黒い傷。Quattroはイン側、左車線を選んだ。小さく回って一気に加速するつもりだ。私は右車線だ。ギリギリまでブレーキングを遅らせ、ボトムスピードを高くして、大きく回るラインだ。


 意を決して左にステアリングを切る。

 鉄の継ぎ目でリアタイヤが外にはらむ。ステアリングを若干戻しつつ徐々にスロットルを開けてリアに荷重をのせる。前に出られる。


 Quattroはストラトスの後から立ち上がった。Quattroのドライバーが大きくスロットルを開ける。こちらも全開で応じる。


 そして湾岸線の4車線区間に出る。

 真横のスズカグレーのボディのシャドウが不気味に濁って見える。

 前に出れるのか――――。

 全開フルブーストで騒音を撒き散らす直3と直5。

 それでも、64馬力と400馬力では勝負にならない。

 あっという間に離されたと思ったその時、


 バックミラーに黒いクラウンが映った。やはり、いた。覆面だ。

 フルブレーキングするストラトス。

 先行したAudi Quattroもブレーキングして速度を落とす。黒いクラウンは我々を一瞥して去っていった。

 思わず、溜息が漏れた。免許が飛んだと思った――――。


 いやそもそもストラトスとクアトロじゃないわ。S660とTTRSだわ。












 冷静に考えたら、Audi Ur-Quattroは前後の駆動軸をセンターデフを介して駆動力を配分し、前後回転差を吸収する機構こそが本物のロードゴーイング4WDだと大きく売りにしていた。それに対し、TT-RSはセンターデフよりも安価で燃費の良いハルデックスカップリングによってFF↔直結4WDを行き来するのみであるにもかかわらず、Quattroを謳っている。

 ホンダはWRCに出たことは一度もなく、そもそもこれは軽自動車だ。もともとのストラトスを作ったランチアだって、今や名前だけが残り実態はほぼ消滅している。まったくもってどっちもWRCマシンじゃなかった。


 ラリーカーもついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

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